科学技術倫理オンラインセンター サイトマップ サイトの使い方
  ホーム | 技術者倫理 | 研究者倫理 | コンピュータ倫理 | 企業倫理 | 環境倫理 | 倫理学 | 科学技術と社会
論文・エッセイ 事例 シラバス・教育実践 倫理綱領・法規 リンク集 教科書情報・文献案内
 
           

Ethics across the Curriculum の取り組み(イリノイ工科大学)

伊勢田哲治、杉原桂太

 イリノイ工科大学では専門職倫理研究センター(Center for the Study of Ethics in the Profession)を中心としてEthics across the curriculumという、独自の取り組みをおこなって、かなりの成功をおさめてきている。これは、倫理を主なテーマとしないいろいろなクラスで少しづつ倫理教育を行っていこう、という考え方である。この取り組みについては、中心となっているマイケル・デイビスの著書Ethics and the University (Routledge, 1999)の中の"ethics across the curriculum" の章で詳しく紹介しているので、以下、その章の内容のまとめを行う。さらに、同研究センターのWeb Pageから近年の動向を紹介する(http://www.iit.edu/departments/csep/)。

Ethics across the curriculum 以前の取り組み

 まずこの取り組みが始められた背景についてデイビスは説明している。イリノイ工科大学では専門職倫理研究センターを1976年に設立し、職業倫理(ここでは専門職倫理だけでなくビジネスエシックスなども含めた倫理教育が問題となっているので職業倫理と訳す)の教育に力をそそいできた。大学においてそうした教育をするためのスタイルとしてはいくつかの方法があり、イリノイ工科大学でも以下の六つのパターンを試してきたが、そのいずれにも問題が指摘されてきた。
 一つは「独立学習」というスタイルで、読み物を学生に配付して自分でまなばせるやり方である。第二の方法は講演会などのカリキュラム外のイベントである。これら二つの方法にはいくつか問題がある。倫理の問題を日常業務と切り離して考えさせてしまう、倫理を「知っておいた方がよい」こととしてとらえてしまい、「知っておくべきこと」という認識を持たせてしまう、ほとんどの学生は積極的に参加しない、といった問題である。
授業内で倫理教育するための方法としてはまず、通常の授業に挿入される「ゲストレクチャー」がある。ゲストレクチャーは授業の他の部分と切り離されているので、職業と倫理の関係を学生に強く印象づけることができない。普通はゲストレクチャーの内容についてテストで出題されることはないのでなおさらである。もう一つ、「学部外科目」(outside course)という方法があり、IITでは1970年代以来、哲学科が他学部学生むけに4種類の職業倫理の授業を行ってきている。しかし、たいていの場合職業倫理の授業は選択科目となるので、これらの授業を取る学生は少数である。しかし、選択の学部外科目はゲストレクチャーと同じで、職業と倫理の関係を印象づけることができないという問題がある。
かといって、そうした学部外科目を必修化することについてはさまざまな問題がある。まず、今でも授業が多すぎる工学系の学生にさらに倫理の授業まで必修化するのは非人道的だという批判がある。授業を担当する哲学科の方も、大学のすべての学生を教えることは非現実的だといって反発する。個々の授業を大人数化すれば授業の質が落ち、授業の数をふやせば教員の負担を増やす。
 「学部内科目」(in-house course)は、以上のような問題の大半を解決する。たいていのプログラムには職業倫理に詳しい教員がいる。職業倫理の授業を組み込むために選択科目を削ることになるかもしれないが、学部外科目にくらべるとそうした際の措置は比較的楽である。ただし、学部内科目にも一つ欠点があり、それは、倫理の授業を単独で行うと、倫理を独立の分野として扱うことになり、職業実践と統合することができないという点である。そこで考えられたのが「全面的」倫理教育("pervasive" teaching of ethics)という手法、すなわち、すべての授業に倫理教育の要素を組み込むという方法である。しかし、この手法は実際にはうまく機能してこなかった。というのも、多くの教員はどうやって倫理教育をやってよいか分からず、自分の能力外の授業をするのをいやがったからである。実際に1950年代に学部内科目としての職業倫理を廃止して「全面的」倫理教育を導入したイリノイ工科大学のロースクールでは、倫理教育がまったく行われなくなるという、意図とは正反対の結果が生じてしまった。
 もう一つの問題として、以上の六つの手法には、ある職業における倫理を別の職業における倫理と区別して教えるという共通の傾向がある。しかし、実際にはさまざまな職種間での共同作業は日常的におこなわれており、お互いの職業倫理を理解しないために倫理問題が生じるということもおきている。
  Ethics across the Curriculumへの取り組みが始まったのは、以上のような状況をふまえて、より効果的に職業倫理教育を行うためだった。

解決策の全体像

 専門職倫理研究センターでは、1990年に、以上のような状況をうけて、4段階、4年半にわたるプログラムを提案した。簡単にいえば、全面的倫理教育を有効に行うための教員教育を行うことを骨子とした解決案である。
第一段階では、イリノイ工科大学の教員を対象とした夏のワークショップを行う。当初の目標としては、3年で全教員の五分の一を教育する計画だったが、実際にはそのあともグラントをとってワークショップを続けている。参加した教員に対しては給付金(2千ドル)が支払われる。実際、そうした形でお金を出さなければ参加できない教員も多いので、この措置は必要である。
 第二段階では授業内に倫理教育を取り込む教員のためのサポートが提供される。サポートの内容としては、コンサルテーション、授業で使うための事例の蓄積、映画・ビデオ・書籍などの購入、ワークショップ卒業生たちの継続教育のためのミーティングなどが提案された。
 第三段階では卒業研究コースを組み建て直し、学際的要素を導入する。たとえばビジネスの学生と土木の学生が共同してデザイン問題にあたる、といった要素である。
第四段階は、カンファレンスや外部むけワークショップを通して、専門職団体や他大学のスタッフに以上のプログラムの成果を広めることである。
なお、以上のプログラムの目的は、独立の科目としての職業倫理の授業を廃止することではない。体系的な倫理教育の場としてそうした科目は貴重であるし、そうした科目があることで、研究の対象としての職業倫理についての学術的な興味も維持される。専門教育内での倫理教育と、独立科目としての倫理教育はお互いに補いあう関係にある。
以下では、このプログラムの第一段階と第二段階について紹介している。

ワークショップの開発

  実はこれまでにもいろいろな大学でEthics across the curriculumと題されたワークショップは行われてきたのだが、その多くは倫理理論とその職業倫理への応用に関する哲学的なワークショップで、参加者はそれなりに楽しんだけれども授業に倫理教育を導入する役には立たなかった、とのことである。これに対し、イリノイ工科大学でのワークショップは、参加した教員が自分の授業の中で職業倫理を論じ、学生自身にちゃんと課題をこなさせるための意欲と能力を身につけることを中心にすえることにした。
そうしたワークショップを開発するため、センターでは、一年以上にわたって、ほぼ毎週、さまざまな分野から8人の教員をあつめて昼食会を行ってきた。この昼食会はアイデアを試す「テスト・マーケッティング」の場として利用されてきた。彼らの多くはなんらかの形でセンターに長らく関わってきており、自分の職業の倫理や、場合によっては哲学についてもかなりの知識を持っていた。しかし哲学者ならほとんど無意識に行えるような作業、たとえばディスカッションのための倫理的事例を作るといった作業についてはどうしたらよいか分からないようだった。
 この昼食会を通して、デイビスらは専門職倫理を授業内に取り込む上で主な障害になっているのは倫理教育の経験が欠けていること、自信がないことだという結論に達した。具体的には、宿題やディスカッションのための問題を作るにはどうしたらいいか、非数学的な推論にもとづく課題を採点するにはどうしたらよいか、というノウハウが欠けているのであって、こういう場合には倫理学理論はあまり助けにはならない。以下にまとめられたワークショップの構成は、以上のような分析にもとづいて組み立てられている。

ワークショップの内容 

  ワークショップは五日間連続の午前のみのセッション(6月)と、二日間の全日のセッション(7月と8月)の二回にわけて行われる。以下、それぞれのセッションで何が行われるかをまとめる。この記述は主に1991年に行われた第一回のワークショップに依拠しているが、それ以降のワークショップもおおむね同じフォーマットで行われている。インストラクターはデイビスともうひとりで担当している。

事前準備

  参加者には1?2週間前に毎日の話題と宿題をまとめたルーズリーフのノート、論文8本と三冊の本が配付される。これらの配付物はワークショップにも持ってくることになっている。

第一日

  まず、15分ほどでインストラクターと参加者が自己紹介をし、このワークショップの目的が説明される。目的は職業倫理の授業をする技術を伝達するという「技術移転」(technology transfer)である。
 第一日の予習として、参加者は職業倫理教育の歴史と方法についての論文を読んでくる。この日はこのワークショップで使う言葉の定義からはじまる。「道徳」(morality)は行為の基準のうち、(合理的な人なら)だれでも他のすべての人に従ってほしいと思う----それが自分も従わなくてはならないということを意味するとしても---ようなものである。「倫理」(ethics)は「道徳」と似ているが、特定のグループの中で適用される「特別道徳」である。「価値」という言葉もあるが、あまりに多義的なのでこのワークショップでは使わない。
次に、最初の事例を使ったディスカッションが行われる。この事例は「触媒B:第一段階」というタイトルで、実験結果の一部を上層部に報告しないように直接の上司から指示された若い技術者の例である。ディスカッションでは、すでに学んだ倫理学用語を使うようにとの指示が出される。この事例は技術者だけでなくいろいろな分野の人にとって議論しやすい題材であることが分かっている。(ちなみに、議論の結果は、おおむね、言われた通りの報告書をまとめる、ただし嘘は書かないように気をつける、そして他の職場をさがす、といったあたりに落ち着くようである)。
 休憩をとったあと、倫理問題について考えるための七段階法(問題の同定、事実の確認、等々七つのステップからなる)が説明される(デイビスらの七段階法は『はじめての工学倫理』などでも紹介されているのでそちらを参照のこと)。参加者の反応から判明したのは、これは実は倫理問題だけではなく、どの分野でもあてはまる合理的決定の方法だということである。この方法を学んだあとで、参加者はもう一度「触媒B:第一段階」の事例を、七段階法にそって検討する。結論はたいていの場合変わらないが、参加者は七段階法を使った方が議論がスムーズに進むことを実感する。最後に「触媒B」の事例について、技術者が「専門職」であることが判断する上で重要な要因になるかどうかという問題提起がインストラクターの側から行われて一日目が終わる。

第二日

  二日目のトピックは倫理学理論で、事前の準備として受講者は功利主義とカント倫理学について読んでくる。レクチャーでは、まっさきに、受講者は自分の授業で倫理学理論を教える必要はない、という保証がなされる。教える必要がない理由の一つは、さまざまな倫理学理論は実践的問題についてはおおむね同じ解答を出すからである。このセッションで倫理学理論を扱うのは、倫理学理論を教えなくてもよいということを納得してもらうため、および、受講者自身が倫理問題について考え、自分の授業でディスカッションを指導する際の助けとしてもらうためである。
 最初は功利主義が紹介される。功利主義はどれだけ人々が幸せになったかによって正邪を判断するが、実際に自分の行為がどのくらい人を幸せにするかを知ることはできないので、行為の指針としてはより主観的な方法が取られる。このワークショップでは「功利主義的方法」としては以下のステップが紹介される。

1 あなたが取ることのできるすべての行為の流れを同定せよ。
2 それぞれの行為の流れについて、影響を受けるすべての関係者を同定せよ。
3 それぞれの関係者について、それぞれの行為の流れがその人の幸福に対してあたえる影響を同定せよ。(一般に、最初の三つのステップは大かれ少なかれまとめて行う必要がある)
4 それぞれの行為の流れを比較せよ。その際、他の要素はすべて無視し、影響をうける人の数と、それぞれの人がどれだけ影響をうけたかのみを考えにいれること(ただしだれが影響をうけたかは考えにいれないこと)。
5 もっとも全体としての幸福を最大化しそうな行為の流れを選択せよ。

 この方法について理解を深めるための事例として、「判断の問題」というビデオが流される。この事例では、経営上責任ある立場にある被雇用者(ジェフ)が自分で事業を始める機会を与えられたという状況が描写される。この事例について功利主義的方法を使ってディスカッションが行われる。参加者からは、功利主義的方法を使うことでありうる帰結すべてに注意を払うことができる、という評価がある一方、明らかに不道徳な選択肢も考慮させられることについて不満の声もあった。また、功利主義的計算を実行するのは非常に難しいことにも参加者は気づいた。
 次に紹介されるのは、功利主義の弱点をさけるためのカントの理論である。カントの定言命法の三つの公式は、行為についての別個のテスト、すなわち整合性、人間の尊厳、自律の三つのテストとして紹介される。たとえば整合性のテストは以下のようにまとめられる。

1 あなたの行為(あたなが実際にやろうとしていること)を同定せよ。たとえば、他人に 対して自分では間違いだと思う内容の話をする、など。
2 念頭にある目的(つまり当該の行為をする上での実際の動機)を同定せよ。例えば、お金を払わずにあるものを手に入れる、など。
3 (ほかのことは今のままだとして)もしも同じ目的を念頭においているときはすべての 人が同じように行為することを許されたなら、その目的を自分が達成することができるかどうか考察せよ。
4 もしも同じ目的を念頭においているときはすべての人が同じように行為することを許されたなら、自分はその目的を達成することができない、とわかったら、その行為を拒絶せよ。

 これらのテストも先ほどのジェフの事例に当てはめられる。しかし、これは見かけほど簡単ではない。たとえば整合性のテストや自律のテストについては参加者はジェフの動機を同定しなくてはいけないが、これは難しい。人間の尊厳のテストについては、誰の尊厳が問題になるかを特定する必要がある(企業は人間として扱われるかどうか、など)。このディスカッションも結論はでなかったが、ポイントは功利主義とカント倫理学の視点で問題がいかに違って見えるかを理解してもらうことにある。
 休憩後、多元主義、社会的正義理論、徳理論、相対主義など、ほかの倫理学理論が紹介される。短時間でこれらを紹介するのは、どれだけ多様な立場がありうるか知ってもらうためである。多元主義の例としてはガートの十個の規則が紹介される。社会的正義理論の例としてはロールズとゴーティエの議論が紹介され、分配的正義の考え方が紹介される。徳理論としては徳を歴史的に定義するマッキンタイアの立場や徳を全体の幸福に貢献するような傾向として定義するベッカーの立場が紹介される。相対主義としては「道徳的相対主義」(なんであれ社会が言うとおりにせよ、という立場など)と「メタ倫理学的相対主義」(倫理学理論に優劣は存在しない、という立場)が紹介される。前者はどうやって「社会が言うこと」を特定すればいいか分からないのでうまくいかず、後者は、具体的なレベルで一致があるなら、倫理学理論家以外にとっては問題にならない。

 第三日

  三日目は職業倫理に焦点がしぼられ、どうやって教えるかについての話もようやく入ってくる。準備のための読み物は、職業倫理についての二つの考え方、すなわち綱領をもとにする考え方と役割をもとにする考え方の紹介である。
 この日は最初に専門職の概念(重要なサービスを行う職業グループであること、公衆への奉仕へのコミットメントを持つこと、特別なトレーニングを必要とすることなど)と責任の概念、専門職の歴史などについてのレクチャーが行われる。ABETの倫理綱領が配付され、今度は倫理綱領に基づいて「触媒B:第二段階」の事例についてディスカッションを行う。これは第一段階での無難な選択の結果、あとでもっと深刻な選択に直面することになったという事例である。工学からの参加者の多くはABETの倫理綱領を見たことがなかった。参加者は、倫理綱領がどれだけ思考に影響を与えるか、倫理綱領をもとに考えることでどれだけ思考に構造が与えられるかについて驚きを表明した。
 休憩後は、技術的な問題を扱う授業でどうやって倫理問題を使うか、についてのレクチャーがある。ここでまず強調されるのは、倫理的基準は他の職業的基準とあまり変わらないという点である。倫理基準も他の基準と同様に、(1)その職業が公衆への奉仕をするためのものであり、(2)常識からはじまって改良されつづけ、(3)実際の文脈と切り離すとわけがわからなくなる。
 まず、教員がやらなくてはいけないのは、自分の技術的授業と関わる倫理問題は何かを同定することである。そのためには、授業の内容を実際の仕事の文脈で捉え直す必要がある。その職業の倫理綱領を読んだり、自分の経験を振り返ったりするのも助けになる。
 倫理問題を同定したら、次はそれを授業に組み込む必要がある。これには少なくとも五つのやり方がある。                                          
1 授業で使う例題を、倫理的な文脈を含む形に書き直す。その例題について普通に説 明したあとで、書き直したバージョンを紹介し、倫理問題を指摘する。(その例題はこの文脈では湾に毒物を放出することを意味する、など。)
2 テキストに並んでいる同じような練習問題を、ある具体的問題を解決するための二つの選択肢に仕立てる(ミニデザイン問題)。(たとえば滑車についての問題をトラクターを泥から引き上げるための二つの選択肢として提示するなど。)学生は普通に問題を解いたあとで、どちらの解決が望ましいかの判断とその理由を答える。
3 その授業で教えられた原理がかかわる災害やスキャンダルについて学生に調べさせる。
4 その授業にかかわる技術的基準について調べさせ、なぜその基準が今の形になっているか考えさせる。
5 実習やフィールドワークを組織しなおし、そこでの行動の基準や評価の基準が仕事の現場と近くなるようにする。

 最後に、以上のような方法の長所、短所についてレクチャーがなされる。授業で使う事例は具体的になるほど学生に大きな影響を与えるが、それだけ時間もとってしまう。ミニデザイン問題は時間はかからないが、たくさんやらないと意味がない。

第四日

  四日目のトピックは、倫理を教えることにまつわる倫理問題である。この日の準備のための読み物は倫理教育にかかわる経験的な論文と、倫理教育をする教員の側の恐れについてのまとめである。
 最初のレクチャーは倫理教育の方法論についてである。成人になっても倫理的な発達は続くので倫理教育が可能なのはたしかだが、どういう教育法が効果的なのかについてはほとんど分かっていない。経験則としては、レクチャーだけではなくディスカッションを取り込むこと、理論だけの授業や具体性の欠けた事例はさけること、倫理問題と技術的問題との類似性を指摘すること、などが有効である。
 次に、倫理を教えることができるとして、教えるべきかどうか、という問題が扱われる。倫理を教えることは学生にとって(1)倫理的感受性を高める(2)関係するリソースや行動基準についての知識を増やす(3)倫理的判断力を高める(4)意志の力を高めるなどの利益がある。
 ここで、倫理教育は思想教育(indoctrination)になってしまうのではないかという心配が提起される。しかし倫理教育は理性に訴えるやりかたで行うことができるので、思想教育になる必要はない。教員が気をつけなくてはいけないのは、単なる自分の意見と、その職業で広く受け入れられている考えを明確に区別することである。広く受け入れられた考え方に同意しない学生に対しても、知識や問題認識能力を十分に身につけているなら、いい成績をつけることができる。
 休憩時間の後は、倫理教育のための戦略についてのレクチャーがなされる。大事なのは、それぞれの授業ですべてをやってしまおうとしないことである。たとえば、一年の学生を教えるなら道徳的感受性を高めることに焦点をおき、二年では知識を増やすことに焦点を置く。三年生に対しては自分で倫理判断を下すような宿題を出し、四年生に対しては仕事の現場でどうやってそういう問題が解決されているかに触れさせる。ただし、これはあくまで一つのモデルである。

第五日

  五日目は授業の実践例に焦点をしぼる。最初の年のワークショップでは参加者が自分のこれまでの実践について発表し、そのおかげで他の参加者の不安をかなり取り除くことができた。二年目以降は過去のワークショップの卒業生たちが自分の授業の例を紹介している。たとえば、ある英語学の教員は、授業の終わりに「一分エッセイ」として、授業の内容を2文程度でまとめさせる、という手法を紹介し、倫理問題もそこに組み込めることを示した。また、別の教員は、一年次でほぼ必修となっているコンピュータの授業で、コンピュータ倫理のディスカッションやACMの倫理綱領を使った宿題が導入されていることを報告した。
 この日の後半は、参加者が学生むけに作ってきた課題の検討が行われる。最初の年はテキストだけ持ってきてどうやって課題を作ればよいか助けをもとめる教員が多かったが、二年目以降は自分でアイデアを持ってくる教員が増えてきた。

第六日

  六日目は前の五日間とは何週間か間をあけてミーティングが行われる。ここでは参加者が秋に行う予定の授業の予行演習を行う(その準備期間として間があけてある)。たとえば、数学の教員は、微積分学の授業で、ある条件下でしか正しい答えがでない計算法について、その条件が満たされているかどうか確かめる義務を技術者としての責任に結び付けて説明する計画を立てた。別の工学の教員は、応用熱力学の授業で、蒸気圧縮型冷却システムに関する問題にコストなどの文脈を付け加え、二つの冷媒のどちらがよいか判断するようにもとめる問題を作った。金融学の教員は、当時話題になっていた日本の証券会社の損失補填の問題をとりあげ、長期的な信用の消失という観点から、道徳的に何が問題なのかを学生に考えさせる、という計画をたてた。

第七日

  七日目も六日目から間を置いて行われる。形式は六日目とほぼ同じだが、今度は採点に重点が置かれる。参加者たちはどうやって採点をしたらよいかについて非常に不安を持っていた。インストラクターは、たとえば、安全についての感受性を高めるという目的の課題であれば、感受性の高まりが解答のどの部分に反映されるはずかを特定し、実際の解答でどのくらい安全性への言及があるかと比較すればよい、というような示唆をあたえている。教員たちは「倫理を採点する」のは性格や思想を採点するようなものだという感覚を持っているので、ひとりひとりに対してその感覚をとりのぞく作業が必要になる。倫理教育では感受性、知識、判断能力にもとづく採点が可能であり、実際に個々の教員が持ってきた課題に対してそれを示してみせるのが重要である。

Ethics across the curriculum のサポート体制

 計画では、ワークショップの卒業生たちに対しては、(a)物質的サポート(本、ビデオなど)(b)社会的サポート(定期的なミーティング)(c)技術的サポート(コンサルテーション)の三種類のサポートが行われることになっていた。しかし、実際にやってみると、卒業生たちは(a)や(b)のサポートはほとんど必要としていなかった。本質的に重要だったのは(c)のサポートで、これも実際にコンサルテーションにかかった時間はたいしたことがなかったが、アドバイスがなければその教員はそこであきらめてしまったのではないかと思うことがしばしばあった、という印象をデイビスは持っている。ただ、センターのコンサルテーションが重要な役割を果たしたのは最初の数年で、そのあとは各学科に「倫理おたく」のような教員が育ってきたため、コンサルテーションの仕事は実質的にかれらが果たしている。

成功の証拠 

  ワークショップの卒業生たちに対しては、実際にどの程度自分の授業に倫理教育を取り込んで、どの程度成功したかについて、追調査が行われる。ほとんどの卒業生が倫理教育がうまくいっているという報告をしており、数年後にも最初の年と同じかそれ以上の倫理的な内容をあつかっている、と解答している。
 ワークショップでは学生による授業評価のフォーマットについても示唆を行っており、それにもとづいたアンケートを取っている教員もおおい。そのフォーマットは以下の通りである。

1 この授業はあなたの職業や仕事で起こりうる倫理的問題についてあなたの意識を高めましたか。
2 「いいえ」と答えた場合、そうした問題に対するあなたの意識を高めるには何をすればよかったと思いますか。「はい」と答えた場合、どのように意識が高まったかを説明してください。
3 この授業の内容は、専門職ないしビジネス倫理の重要性に対するあなたの理解を変えましたか。
4 「いいえ」と答えた場合、あなたの理解を変えるには何をすればよかったと思いますか。「はい」と答えた場合、どのように理解が変わったかを説明してください。
5 この授業はそこでとりあげた倫理問題について、あなたがそれを取り扱う能力を高めてくれたとおもいますか。
6 「いいえ」と答えた場合、そうした能力を高めるには何をすればよかったと思いますか。「はい」と答えた場合、どのように能力が高まったか説明してください。
7 この授業で専門職ないしビジネス倫理に割かれた時間について、多すぎると思いますか、少なすぎると思いますか、ちょうどよいと思いますか。こうすればよかったのではないかという提案はありますか。
8 この授業より前に、専門職ないしビジネス倫理について他の授業で習いましたか。

 このフォーマットにもとづいてこれまでにとられたアンケートの傾向としては、1については大多数が肯定的な解答をし、3や5についてはそれよりは否定的な解答が多くなっている。しかし3や5で否定的な解答をした学生も7では「ちょうどよい」と答えるなどしており、ethics across the curriculum という試みそのものに否定的なわけではない。
ethics across the curriculumの試みが成功した理由としてデイビスは、まず、各教員が倫理を授業に取り込む障害になっていたのは倫理理論についての知識が欠けていたことではなく単に経験が欠けていたことだ、と指摘する。このことに彼らが気づいたのは実際にそういう授業をすることになる教員に対して注意深い「マーケットリサーチ」を事前に行ったからで、そうしたマーケットリサーチの重要性もデイビスは指摘している。

2002年ワークショップとその成果 

  イリノイ工科大学・専門職倫理研究センターのWeb Pageによると、夏のワークショップは1993年までイリノイ工科大学の教員を対象としていた。94年からは、海外を含め他大学からも参加者を受け付けるようになっている(2002年ワークショップに金沢工業大学の西村秀雄氏が参加し、「全教育課程を通して行う技術者倫理教育の意義と可能性」『科学技術社会論学会 第2回 年次大会予稿集』pp.189−90で報告し解説されているので参照されたい)。
 同Web Pageによれば、参加者は、ワークショップの成果を活かして各大学で行ったコースについて追跡調査となるレポートを提出する(その一部が先に紹介した学生に対するアンケートである)。技術系コースにかぎると、2002年ワークショップに参加した次の工学分野・大学の教官によるレポーが同Web Pageで公開されている。化学工学:イリノイ工科大学、土木工学:デ・ラサール大学(フィリピン)・カルビン大学・マサチューセッツ大学・サザン ポリテクニック州立大学・イリノイ工科大学・ユタ州立大学、電気工学:ロヨラ メアリーマウント大学・米国空軍士官学校・アラバマ大学、機械工学:デイトン大学・パデュー大学・ウェスタン ニューイングランド大学・テネシー大学チャタヌーガ校・マサチューセッツ大学ダートマス校・ボストン大学。
 これらの中で、ユタ州立大学のライアン・デュポンによるレポートは次のように報告している(Report of Integration of Ethics Across the Curriculum Civil and Environmental Engineering Utah State University, 2003)。2002年度の学期が始まる前に、イリノイ工科大学でのワークショップについてのプレゼンテーションが化学・環境工学科の教員を対象にして行なわれた。それまで、倫理のためのEthics across the curriculumという考え方をよく理解している者は少なく、倫理教育は技術教育を犠牲にするという反応があった。そこで、このプレゼンテーションは啓発的なものとなっている。ワークショップで紹介された倫理問題の小テストが参加者に配られ、技術系の講義の中に取り込むための倫理教材を開発することが課題として示された。
 2002年度にEthics across the curriculumは次の四つのコースで実施された。環境基礎工学コース(化学・環境工学科3年生に対する前期必修科目)では、人と環境との関係における倫理問題やASCE(米国土木技術者協会)の倫理綱領が示さる。これと組合せとなっている技術的コミュニケーション・コース(化学・環境工学科3年生に対する前期必修科目)はwriting across the curriculumのためのコースで、環境基礎工学コースで提示された倫理問題を踏まえて学生同士で議論し、自分で考えた倫理綱領を作成することが課された。固体・有害廃棄物経営コース(環境工学部3年生に対する前期必修科目)においては、ごみ減少化・リサイクル・ごみのエネルギー転化・ゴミの処分が扱われる。     ASCE倫理綱領を理解し、その中に示されている持続可能性の理念を固体・有害廃棄物の経営に活かすことが示された。デザイン・プロジェクトコース(環境工学部3年生に対する後期必修科目)では、技術者資格やエンジニアリング・デザイン、技術者‐顧客‐建設業者間の関係、プラントと仕様書、入札、コストと工程表、企画書、専門職倫理が示される。
 化学・環境工学科にとって、Ethics across the curriculumは実りあるものだったとデュポンは指摘する。教員と学生の双方がこれを前向きに捉えている。さらなる取り組みは、ここで学生が得た経験を、技術系の選択科目や4年生での設計へと広げていくこととなっている。