技術者のための倫理教育

大野 波矢登


1 はじめに


 現在、技術者のための倫理教育の必要性が叫ばれている。日本でこのような動きが表立って現れるようになった背景には、少なくとも二つの要因がある。一つは、科学技術に対する信頼の回復、もう一つは、技術士制度の見直しである[1]
 科学技術の高度化・複雑化に加え、最近わが国でも顕在化してきている生命倫理に関わる問題、原子力施設の事故等により、一般市民のなかには科学技術に対する不安感、不信感が増大しつつある。そこで技術者に求められているのが社会的責任であり、そのための課題として、「技術者の安全意識の徹底化」、「技術者倫理に関する教育の充実」が技術者たちの間でも強く意識されるようになってきた。
 また、これまで日本では昭和32年に創設された技術士制度が適用されてきた。しかし、この技術士という資格は日本国内でのみ効力をもつものであり、海外で仕事の機会を得ることがますます多くなりつつある、技術者の今日の活動状況に相応しいものではない。そこで、国際的な技術者資格の相互承認への適切な対応として、一定水準の教育を受けることを保証する技術者教育認定制度を導入する取り組みが現在進められている。そして、その教育目標には工学倫理教育の充実、職業倫理の徹底も含まれているのである。
 とはいえ、日本における工学倫理教育は始まったばかりであり、その本格的導入と、今後の進め方に関してはまだ模索の段階にある。わが国のこのような現状は、1980年頃のアメリカの状況に似ている。倫理教育に対するさまざまな取り組みがすでに実施されているアメリカが、その意味では、日本にとって一つのモデルになるのではないかと思われる。以下では、過去にアメリカで行われた工学倫理に関する研究と教育を概観し、倫理教育の望ましい在り方について考えてみる。
 

2 アメリカにおける工学倫理の歴史


 アメリカには学会組織とは別に、職能集団としての各種技術業協会が存在しており、倫理に対する取り組みはそれら協会単位で行われてきた。取り組みがいつ頃から何を目的として始まったかを知るために、まず、それら協会が倫理綱領を採用した時期と、倫理綱領の内容がもつ特徴を見てみることにしよう。
 

1847 アメリカ医師会(AMA) 
――アメリカで最初に採用された倫理綱領。
1884 全米葬儀管理士協会(National Funeral Directors Association)
1908 アメリカ法律家協会(ABA)
1911 アメリカ顧問技師協会(American Institute of Consulting Engineers)
1912 アメリカ電気技術者協会(AIEE) 
――他の多くの技術業協会の綱領のモデルとなったものであり、これにならって主要な協会は次々に綱領を採用した。
    アメリカ化学技術者協会(AIChE)
1914 アメリカ機械技術者協会(ASME)
    アメリカ土木技術者協会(ASCE)
1927 アメリカ技術者協会(AAE) 
――協会そのものに関して言えば、これはあらゆる分野の技術者のための包括的な協会として設立されたが、短命に終わる。
1947 専門職発展のための技術者評議会(ECPD) 
――1963年、1974年、1977年に改正を行う。この綱領は後に工学技術認定委員会(ABET)が受け継ぐ。
1964 全米専門技術者協会(NSPE) 
――それまでECPD(1947年版)の綱領を使っていたが、この年独自の綱領を採用。NSPEは1958年から倫理審査委員会(BER)を設置し、会員から寄せられた倫理問題に対して回答を作成する活動を続けている。


 現在、アメリカの多くの技術業協会が採用する倫理綱領の基準となっているのは、NSPEおよびABET、そして1963年にAIEEがラジオ技術者協会と合併してできた電気・電子工学技術者協会(IEEE)が採用する綱領である。他の協会はほぼこれらの綱領に倣うかたちになっている[2]


 ところで、一概に倫理綱領といっても、綱領を採用することの目的は、時代とともに変化している。この変化とともに倫理綱領自体も改正されてきたわけであるが、変遷はほぼ三つの時期に分けることができる。初期の技術業協会が設立された19世紀終わり頃、最初に倫理綱領の改正が行われた第二次世界大戦以降の時期、ふたたび重要な改正が行われることになった1980年頃の三つの時期である
 初期の倫理綱領と第二、第三の時期のものとの間には大きな違いがある。その違いは、技術者の「公衆」(public)に対する関わり方に深く関係している。伝統的に専門家と呼ばれたのは法学、神学、医学の分野の専門家たちであり、技術業が専門職の仲間入りをする際にも、これら伝統的専門職がモデルになっていた。伝統的専門職をモデルとすることによって、技術者は自分たちの地位の向上を図ったわけである。伝統的専門職は業務の遂行において個別の依頼者の福利を最優先させてきた。技術業もこの特徴をそのまま受け継ぐことになる。その結果、初期技術業協会の倫理綱領では、技術者相互、および技術者−雇用者、技術者−依頼者といった個人間の関係が重視され、技術者−公衆の関係は軽視された。
 しかし、過去数十年の間に起こった原子力施設や化学薬品工場の事故等からも分かるとおり、技術者はときに何十、何百という人々の生命や健康に影響を及ぼすような判断を下さなければならない。技術業業務のこのような側面が、倫理綱領の内容に反映されるようになったのは、第二次世界大戦以降のことである。
 大きな変化が現れるきっかけとなったのは、1947年にECPDが作成したモデル・コードであった。そこには、控え目にではあるが、公衆の生命の安全と健康に対する配慮、公衆に対する忠実性についての原理がはじめて盛り込まれている。アメリカの多くの技術業協会がこれを使って倫理綱領の改正を行った。1963年と1974年の改正では一層この点が強調されるようになり、1977年の改正では人類の福利が諸原理の最高位にランクされるようになった。
 

 「専門家の行動の根本原理は高潔さであるから、技術者は、公衆や雇用者や依頼者に対して(to the public, his employers, and clients)忠実に義務を果たし、そしてすべての人に対して公正かつ公平に義務を果たす。公衆の福利に関心をもち人類の便益のために彼の特殊な知識を適用する用意があるというのは、彼の義務である。」(1947年)

 「技術者は、その専門職の義務の遂行において、公衆の安全、健康、福利を最優先する(hold paramount the safety, health and welfare of the public)。」(1974年改正)


 後者はアメリカの主要な技術業協会(ASCE, ASME, AIChE等)で現在広く採用されている。なお、IEEEは他とはかなり異なる独自の倫理綱領をもっており、そこには公衆の利害が最優先され(hold paramount)なければならないとは明記されていないものの、雇用者や依頼者に対する技術者の責任は、「公衆の安全、健康、福利を守る」責任によって制限される(be limited)という内容の条項が含まれている。
 

3 工学倫理教育に対する取り組み


 次に、倫理綱領の制定や改正といった活動以外に、どのような取り組みがなされてきたかを見ていくことにする。
 アメリカで工学倫理研究が、技術者と他の関連分野の研究者たちの協力によって学際的に行われるようになったのは、1970年代終わりである。しかし、技術者たちの倫理に対する関心は技術業専門職の誕生と同じぐらい古いものであり、19世紀終わりにまでさかのぼる。技術者が専門職協会を設立し始めた当時、会員が倫理に対する強い関心をもち、協会内部に自らを厳しく律する機能を備えていることは、外部からの要請に応えるものでもあった。第二次世界大戦以降になると、巨大科学技術によって人類の将来が脅威に晒されているとの認識の下に、倫理への関心は、組織作りに必要な条件という消極的なものから、科学技術が社会や人々の生活に及ぼす影響力をも視野に入れた積極的なものへと変わる。そして、このような変化は当然教育にも及んでいる。
 1977年に全米科学財団(NSF)の後援で、米国科学振興協会(American Association for the Advancement of Science)が行った調査によると、アメリカのほとんどの大学では、科学技術が人々の倫理および価値観に対して及ぼす影響をテーマとする授業が、少なくとも一つは設けられている[3]。そこには、「テクノロジー・アセスメント」「科学技術と価値」「科学技術と公共政策」といった一般的なものから、「自動車がアメリカ文化にもたらした影響」「コンピュータとプライヴァシー」「現代社会のなかの機械技術」といった比較的特殊なものまでさまざまであるが、科学技術の影響力とその善悪を、考察すべき基本テーマとしている点では共通している。
 哲学、工学、社会科学、法学、経営学等を巻き込んだ学際的研究としての「工学倫理」(engineering ethics)がスタートしたのは、1978年から1980年に、全米科学財団と全米人文学研究寄付金(NEH)の後援でロバート・バウム(Robert Baum)が行った「哲学と工学倫理についての国家プロジェクト」(National Project on Philosophy and Engineering Ethics)が最初である[4]。バウムは、工学倫理を次のように定義している。
 

 「工学倫理は、狭義には、なんらかの種類の道徳的原理を伴う、(個人または集団としての)技術者の行為に関する判断と決定を扱うものである。」[5]


 「技術者の行為に関する判断と決定」というと、研究対象は非常に限られたものであるように思われるが、むしろバウムは、工学倫理をテクノロジー・アセスメントのような研究分野と明確に区別して、従来取り上げられることのなかった新たな研究分野の重要性を強調している。バウムの説明によると、工学倫理に求められているのは、科学技術の影響力(主に負の影響力)を認識することではない。このようなテーマは上にあげた関連分野において、すでに研究・教育がなされてきた。工学倫理が扱うのは、むしろその先にある問題、つまり、技術者が自己の社会的責任を認識し、それに基づいて実際にどう行動すべきかを自ら考えることができるようにすることである。科学技術そのものではなく、それを作り出す人々の意思決定に焦点が当てられているのである。
 現在の日本で求められているのも、このようなタイプの研究および教育であるように思われる。『科学技術白書 平成十二年版』によると、倫理教育の目標は、科学技術に対する国民の不安感、不信感を払拭し、信頼を回復することにある。そのために行うべき事柄としていわれているのは、「理解増進活動」である。しかも、そこには説明責任を果たすという、どちらかといえば消極的な活動だけではなく、社会との交流によって、自分の研究に対する社会からの要請を汲み取り、それを自らの研究成果の向上に繋げるといった積極的な活動も含まれている[6]。すなわち、個人レベルおよび集団レベルでの、専門家に相応しい行動が技術者に問われているのである。
 しかし、テクノロジー・アセスメント等の教育については、日本はどの程度アメリカに近づいているだろうか。バウムのいう狭義の工学倫理は決して他の関連分野とともに学習しなければ効果の上がらないものではないだろうが、他の関連分野を含めすべてを「工学倫理」という名前で一括することは難しい。日本における工学倫理教育導入においてはこの点を慎重に考えてみる必要がありそうである。
 

4 工学倫理、その研究と教育のいくつかのタイプ


 工学倫理を、技術者の意思決定に関する研究と狭くとったとしても、技術者の行為はどのような道徳的原理に基づくべきであるか、どのようにして倫理的技術者を育成するか、ということに関してはいくつかの考え方があり得る。また、倫理の推進には倫理綱領が重要な役割を担うものと思われるが、倫理綱領は技術者教育にどのように役立てられるべきだろうか。これらの問題に対するいくつかの考え方を概観してみよう。
 

(1) 倫理綱領遵奉主義

 〈倫理的な技術者を育成することは、その技術者が所属する(将来所属することになる)技術業協会の定める倫理綱領を忠実に守る技術者を育てることであり、倫理問題の解決は必ずその綱領に則って行われなければならない。〉
 多少ナイーブではあるが、倫理教育に関して現在流布しているのはこのような考え方ではないかと思われる。しかし、これに対してはいくつかの問題点が指摘されている。
 @個々の技術者が綱領に従って倫理的判断を下すことは実際上不可能に近い。主な理由は二つあり、一つは、綱領はあらゆる個別の状況をカバーできていないということ、もう一つは、綱領に含まれる各条項の適用には解釈の余地があり、どの解釈が最善であるかを見極めるのが容易でないような状況があるということである。
 A綱領に含まれる基本的原理は状況によって相互に矛盾しあうことがあり、綱領自体はこの矛盾を解決する指針を与えていない。例えば、ABETの「技術者の倫理綱領」の四つの「基本原理」には次のようなものが含まれている。
 T自らの知識と技術を人類の福利の増進のために用いること。

 U正直で公平であること、そして公衆、雇用者、依頼者のために忠実な態度で奉仕すること。

 軍事兵器、原子力、農薬等の関連工場で働く技術者が、人類の福利の増進と雇用者や依頼者への忠誠との間の相互に矛盾し合った義務に悩まされることは、容易に想像できよう。
 B倫理綱領の遵守と道徳的自律性(moral autonomy)の獲得とが安易に同一視されている。この場合、綱領の制定や普及が、技術業協会のなかのすでに高い地位にある経験豊かな専門家たちの協議と判断によって行われるものである以上、道徳的自律性を獲得するための教育が権威主義的に行われるといったパラドキシカルな事態は避けられない。[7]
 

(2) 意思決定の「ガイド」としての倫理綱領[8]

 禁ずべき行動を規定するといったネガティブな面からではなく、むしろ、個々の技術者に対して専門家に相応しい行動を促し、そのように行動する技術者を支援するといったポジティブな面から、倫理綱領の意義を理解することもできる。
 ルーゲンビィルやアンガーらが提案するのは、倫理的に正しい判断を下すための「手引き」(guides)としての綱領の役割である。技術系学生を自律した道徳的主体へと育てる場合にも、彼らが倫理綱領を受け入れる以前からもっている倫理的信念は尊重すべきである。その信念が何に由来するかということは個人差があるだろうし、あまり重要ではない。ただし、それをさらに成長させるには、さまざまな個別の状況で倫理的に正しい判断を下す訓練を行う必要がある。技術系学生のための教育は倫理にあまり馴染みがなく、そのため彼らが自分の行為について立ち入った考察を行うことはまれである。それに加えて、技術業の業務という、これから踏み込むことになる世界について彼らはまったく未知である。このような状況にある学生たちにとって、倫理綱領は多くの人々が積み重ねてきた経験と知恵を具現したものであり、訓練の適切な手引きの役割を果たしてくれる。また、すでに技術業協会の一員となっている者に対しても、綱領は、会員の一人として自己が引き受けるべき責任を自覚させ、倫理的に行動することが規範であるという環境づくりを促すという面で、重要な役割を果たすのである。
 

(3) 「契約」としての倫理綱領[9]

 デイヴィスは専門職団体が倫理綱領を採用する理由をいくつかあげているが、そこでは「契約」という概念が重要な役割を果たしている。一つは、「社会との契約」(contract with society)という考え方であり、もう一つは、「専門家間の契約」(contract between professionals)という考え方である。
 倫理綱領を社会と専門技術業との間のある種の契約の表現と見なす、とはどういうことかというと、専門職は社会が与えてくれる、高い報酬、名誉ある地位、厚い信頼、自治といった利益を享受するのに対して、社会は専門職から高度な専門知見を必要とするサービスと、サービスの提供に際して自らを規制することを要求することができる。このような契約の成立の証として倫理綱領が設けられている、という考え方である。
 確かにこれは倫理綱領を採用する一つの理由ではあるが、しかし、この理由によっては説明できないことがあると、デイヴィスは指摘する。技術業がすでに専門職と認められ、「社会との契約」が成立しているにもかかわらず、なぜ技術者は倫理綱領の詳細になお強い関心を示すべきなのか。なぜ初期の倫理綱領は、技術者が互いを遇する仕方について、あれほど多くの取り決めを行っているのか。これらの問いに対して、「社会との契約」という理由は適切な答えを与えてくれない。そこで彼はこれに代わる「専門家間の契約」という考え方を支持する。
 これによると、綱領は同じ分野の技術者間の相互協力を可能とする集団づくり、つまり統合という問題を解決する一つの方策である。例えばNSPEの綱領には、「依頼者または雇用者が、専門職に相応しくない行動を強要する場合、技術者は正当な権限をもつ者に通知し、そのプロジェクトについてそれ以上のサービスから引き揚げるべきである」という内容の条項が含まれている。これは倫理綱領の性格上、個々の技術者の行動の自由を制限するものではあるが、それと同時に、技術者たちが相互に支え合い、単独では抵抗しがたい圧力に抵抗することを可能にする。つまり、倫理綱領とは、いわば、専門職内部の「ゲームの規則」(rules of the game)であり、専門家であると互いに認めあった者どうしの相互協力を可能にする限りにおいて、それは強制力をもつのである。
 

(4) 倫理綱領の道徳的基礎を知ること[10]

 「手引き」や「契約」といった考え方のように倫理綱領の強制力を技術者個人の外部に置くのではなく、強制力は内面化されなくてはならないという主張がある。つまり、技術業は単なる生計を立てる道ではなく、「召命」(profession, calling)であり、技術者は高い社会的目標を達成するために自らの技術と能力を役立てなくてはならない。それゆえ、倫理的技術者の育成は、単に規則に服従するだけの技術者を育てるというのではなく、個々の規則の正当化と、一連の規則を受け入れることの倫理的根拠の理解を目指すものでなくてはならない。
 例えば、シュロスベルガーは倫理綱領を受け入れることの根拠について次のようにいっている。まず、個々の技術者に関していえば、技術業における倫理的次元を理解している技術者は、より良くより幸福(better and happier)であるということ、そして雇用者の立場からいえることは、「倫理はよいビジネスである」(Ethics is good business)ということ−−つまり、@倫理的行動は短期間ではコストが便益を上回るが、長期的に見れば、便益がコストを上回る、A企業が倫理に対する強い関心を示すことは市場でも有利に働く、B倫理は、より優れたより生産的な技術者を作り出す−−である。
 このような道徳的基礎を理解することによって、技術者は規則を遵守するためのより大きな動機づけを得ることにもなるのである。
 

5 おわりに


 ところで、倫理綱領を利用して倫理教育を行うことに対して、ラッドは次のような批判を行っている。倫理は思索的で批判的な知性による際限のない活動である。それは、検討され、追求され、熟慮され、主張されるべき争点からなるものであって、立法や規則制定、政策立案からなるものではない。倫理を自律的な道徳的主体のなかにではなく、外から課される規則のなかに見出そうという視点は根本的に誤っている。したがって、倫理綱領を用いて倫理的に行動する人を育成するという試みは、倫理というものに対する誤解に基づいた見当はずれの試みなのである[11]
 果たしてそうであろうか。自律的行動と倫理綱領を、道徳的主体の内と外に位置づけ、倫理的行動の本質を道徳的主体の内にある自律性と捉えるという、このような単純化された図式が正しいものであるかどうかを、この場で十分に検討することはできない。それでも、仮に倫理が、ラッドのいうような、批判的知性による終わりのない活動であるとしても、倫理綱領や法律の果たす役割は、決してこの活動と対立するものではないように思われる。最後に、ラッドに対するリヒテンバーグの反論のなかで示唆されている、倫理綱領や法律がもつ別の重要な役割を指摘しておきたい。
 リヒテンバーグによれば、道徳的主体の内と外は独立のものであり本質的に相互不干渉であるというラッドの理解は、事実として誤りである。彼女は、アメリカにおける市民権運動などを例にあげ、法における変化が、長い間にさまざまな倫理的問題に対する人々の感受性や姿勢を、どのように変化・発展させてきたかを注意してよく見るようにといっている[12]。つまり、倫理綱領や法律は、本来、それ自体が目的なのではなく、ある目的を達成するための手段である。技術業協会が倫理綱領を制定し、それを使用し、改正を行っていく、そして、協会外部の人々に対しては、倫理綱領の理解を促し、それとともに倫理に対する関心を喚起し、意識改革を図る。これらは倫理綱領が目的としているところを実現するための全体的な運動であり、倫理綱領の制定のみによって完結するものではない。しかし、このような運動を推進する上で、倫理綱領をもち、それを内外にアピールすることの意義は大きい。リヒテンバーグが市民権運動を引き合いに出して強調しているのも、そのような立法と裁判を通じて行われる運動としての法律の側面である。
 倫理綱領のもつこのような側面を見失わないためには、倫理綱領の批判的分析といえば、道徳的基礎ばかりに注目するのではなく、倫理綱領の変遷を学び、それを通じて、綱領が何を目的とし、どのような方向へと向かってきたかを理解することが大切である。そして、既存の倫理綱領が目的達成のために適切なものであるかどうかを批判的に吟味することは、教育の場面においても行われるべきである。それは、技術者自身が自分を歴史のなかにどのように位置づけるかを知ることでもある。

※ 本稿は、第33回日本科学哲学会(2000年12月3日、名古屋大学)ワークショップV「工学の倫理」における発表原稿をもとに執筆したものである。
 
 


[1]『科学技術白書 平成十二年版』97頁−105頁.
[2]以上の倫理綱領の変遷は次の文献を参考にしてまとめたものである。
 Baum, Robert J. (1980), Ethics and Engineering Curricula, Hastings Center, Hastings-on-Hudson, N.Y., pp. 7-10.
[3]Baum (1980), pp. 1-3.
[4]Martin, Mike W. and Schinzinger, Roland (1997), Ethics in Engineering, 3rd ed., McGraw-Hill, New York, pp. 12-13.
[5]Baum (1980), pp.2-3.
[6]『科学技術白書 平成十二年版』102頁−103頁.
[7]この観点からの最も厳しい批判は、ジョン・ラッドの論文「専門職の倫理規程の追求:知性とモラルの混乱」のなかに見られる。Vesiliand, P. Aarne and Gunn, Alastair S. (2000), 『環境と科学技術者の倫理』丸善,211頁−219頁.
[8]Luegenbiehl, Heinz C. (1983), 'Code of Ethics and the Moral Education of Engineers', Business and Professional Ethics Journal, vol. 2, no. 4 (1983), pp. 41-61.
 Unger, Stephen H. (1982), Cntrolling Technology: Ethical and the Responsible Engineer, John Wiley & Sons, New York, pp. 106-135.
[9]Davis, Michael (1998), Thinking Like an Engineer: Studies in the Ethics of a Profession, Oxford University Press, New York, pp. 49-51.
[10]Schlossberger, Eugene (1993), The Ethical Engineer, Temple University Press, Philadelphia, pp. 4-10.
[11]ジョン・ラッド「専門職の倫理規程の追求:知性とモラルの混乱」,Vesiliand and Gunn (2000),212頁.
[12]ジュディス・リヒテンバーグ「倫理規程は何のためにあるか」,Vesiliand and Gunn (2000),222頁.