スティーブン・コーエン ダミアン・グレース 「技術者と社会的責任:善をなす責務」
Stephen Cohen and Damian Grace, "Engineers and Social Responsibility: An Obligation to Do Good "
in:
IEEE Technology and Society Magazine
, Vol. 13, No. 3, pp. 12-19, Fall 1994.
キーワード 技術者、専門職業、社会的責任、倫理規定、社会的実験、技術者教育
本論文においてコーエンとグレースは、技術者は社会的責任に対し特別の注意を払う必要はなく払うべきでもないという主張に対し、技術者の社会における存在理由を論拠に、危害を回避することのみならず善をなすという積極的な社会的責任を個人としての技術者と専門職業としての技術業の実践の不可欠な要素としてみなすべきだと論じている。
その上で、公共の利害を優先した技術者と他の技術者との紛争に専門職業組合が前者を処分する裁定
を下した事例を引用し、専門職業組合の倫理規定にある公共の利害を支持する条項の効果が弱められており、専門職業組合は会員に公共の利害を支持する条項を重要視させ、会員の独立性を支援し促進させるべきだと主張している。さらに、コーエンとグレースは通常の技術者教育課程とは別枠で技術者の社会的責任を学ばせることの必要性について論じている。日本においても、近年、その社会に与える影響の大きさから科学技術についての倫理が論じられ、理工系学部の教育課程に工学倫理を導入することの必要性について議論が行なわれている。このような情況について考察する際に本論文は有益な示唆を与えるように思われる。
以下では、技術者の社会的責任、技術者集団における倫理問題、社会的責任についての教育の必要性について述べられている部分を中心に要約することにより本論文を紹介する。
1 社会に対する特別の義務
社会的責任とは専門職(professional)がただ専門職業(profession)の一員であることによって社会に対して持つ特別な義務、あるいは専門職業が全体として社会に対して持つ特別な義務である。
オーストラリア技術者協会(IEAust)の倫理規定の第一条は会員である技術者(engineer)に、公共の利害と安全をすべての他の考慮と責務に優先するように義務づけている。倫理規定は会員にこれを技術業という専門職業の要件の付加的なものとしてではなく、専門職業の中心的要件への不可欠なものとして受け入れるように要求している。このような条項は、会員に「公共の安全、健康、福利を擁護」するだけでなく「公共の利害の...阻害に対して声をあげる」ことを課す米国電気電子技術者協会(IEEE)の倫理規定のようなより強力な倫理規定にも見られるが、会員に公共の利害にはっきりと注目することを義務づけるこのような要求は倫理的に正当化可能だろうか。
2 社会的責任の哲学的ルーツ
科学における社会的責任のための運動は、マンハッタン計画に科学者が参加した第二次世界大戦後に起こり、環境問題への関心と共にヴェトナム戦争を経て重要な問題となり、「社会的責任」は科学的、技術的な試みの不可欠の要素となった。しかし、「社会的責任」が何を意味するのかは、個人としての技術者と技術業という専門職業のいずれにとっても明らかではない。
フォン・ノイマンは科学者は道義的に社会に責任を負わず、個々の科学者はその発見の結果について社会的な罪の重荷を背負うべきではないとしていた。
しかし、ニュルンベルク裁判以降は、個人はその活動から生じた悪事に対して、たとえ悪事を進めたシステムの一部にすぎなくとも責任を負うという見解が現れている。
多くの場合、双方において個人的責任の帰属は不確かである。第一に「多数の手(many hands)」の問題が発生する。科学者と技術者はチームの中で活動しており、すべての結果の責任を個々の参加者に帰するのは難しい。第二に「集団思考(groupthink)」をするとそのプロジェクトの正当化にばかりを理解し明確にすることになり、 受け入れられているパラダイムにおける「通常の」技術的活動において、批判的な視点をもつことは難しくなる。
ビジネスにおける社会的責任
ビジネスでは、投資家に資本を投入させる方法として有限責任が受け入れられており、さらに匿名のベールが企業の指導者に用いられ、個人的責任を恐れずに意思決定をすることを可能にしている。これらの従来の慣習が非難される傾向は強 まっており、現在では時として個人は企業の名前においてなされた活動に法的に責任があるとされている。にもかかわらず、これら個々の事例から浮かび上がってくる一般則は、現在にお
いては投資家と企業の指導者は自分の決定の帰結に対しては、意図的に限定された形
でしか責任をとらされないということである。
ミルトン・フリードマンはビジネスにおける社会的責任の概念に異議を唱えている。
経営者と企業の指導者は社会やステイクホルダー(利害関係者)とされる者ではなく、株主に信託上の義務を負うとされる。
立法者は政策が民主的に行なわれるように選挙によって選ばれ、社会の多数の部分の反応を考慮しなければならないため、個人の気まぐれにした がって決定するぜいたくはめったに許されない。
これに対し、良心的人々は選挙民の要請に応える必要はなく、個人的な誠実さを擁護することが皮肉にも社会に対してではなく個人としての自分自身にのみ責任があることになる。これは個人にとっては満足なものでも社会的に正当化することはできない。
ここには、社会的責任の重荷を個人に課すことの公正さと望ましさには疑いが残るということと、社会的責任を個人ではなく継続する利益が社会にとって重要である集団に課すという知恵の二つことがらが存在する。
義務以上の行為
社会的責任をめぐる議論において、「社会的責任」が標準的な倫理的視点に加えられる「義務以上の行為(supererogation)」とされることがある。マザーテレサや他の無名の人々の英雄的行為は義務以上の行為とされる。これらの人々の活動は、決してめずらしいものではないが、義務
の要請を越えている。このような活動は高い倫理的価値をもつが、要求されえない。技
術者の倫理的責任に関する文献は、そうした責任を義務以上の行為と見なしてはいな
い。
3 社会的実験
マーティンとシンジンガーによれば、技術業(engineering)は社会的実験の形式として特徴づけられ、どのようなプロジェクトもまったくリスクがないということはなく、少なくともこの意味で実験である。
同時に、人々がその実験によって影響を受けうる限り、技術業のプロジェクトにおいてこれらの人々が考慮されるべきであり、他の実験と同様に技術業のプロジェクトの「インフォームド・コンセント」が得られるべきであると主張している。
社会的実験モデルへの評価
社会的実験モデルは、社会的責任の要求を付加的なもの、専門職業に加えられるものとしてではなく特徴づけた点と、社会的責任の要求を専門職業とは何かという不可欠な要素、技術業の実践において効果を持つ第一原理すなわち基本的義務として特徴づけた点について正しいが、危害の回避やリスクの最小化などの要求のみに目をやっている。これは専門職業の「消極的な」側面である。マーティンとシンジンガーは社会的責任を確立する目的のために全体的、ないし一般的視点から技術業の実践全体を見たことについては正し
いが、全体の実践を見る十分に広い展望を採用しておらず、彼らのモデルは制限されすぎたものである。マーティンとシンジンガーは「実験として、一般に技術業の実践におい
て考慮すべき倫理的な問題はあるか」とは問うが、「実験として、一般に技術業の実
践が考慮すべき倫理的に重要な目的はあるか」という問いをたてそこなっている。後
者の問いこそが技術業の存在理由(rationale)に関わる重要な問いである。
4 社会的存在理由
ここでは、技術業という専門職業の存在理由は「科学的知識を公共の善に応用すること」だとする。
これは狭く理解された技術的問題に単なる技術的解決策を提供することではない。
「公共の善を促進すること」が技術業の 不可欠な部分なのである。
この技術業の存在理由がマーティンとシンジンガーの社会的実験モデルによって提案されたものよりも広くより多くを要求することが次のように明らかになる。
技術業という専門職業の社会的責任
善を促進するという要求は単にリスクを回避し最小化するという要求とは意味が異なる。
リスクの回避と最小化についてのみ語ることは、技術業を雇用者が定めた目標を達成するための単なる手段として見なすことになり、リスクを最小化した上で定められた課題(agenda)を実行することを要求することになる。リスクの最小化は、技術業がその専門的技術知識を与えられた問題に適応する際の制約として機能するが、これは善を促進するという推定上の要求とは異なる要求である。
善を促進するという要求はそれ自体の課題であり、与えられたことに対処する際の単なる制約ではなく技術業の不可欠な要素の積極的な義務である。
以上のことがらは技術業と全体としての社会の関係についての三つのありうる概念として表される。
- 関係なし。技術業の課題は問題に対しただ技術的解決を提供することである。
- 社会の保護。技術業は1)に加え、公共へのリスクを最小化することを考慮しなければならない。
- 社会に対する善の促進。技術業は2)に加え、公共の善の促進を試みる積極的な社会的責任、公共の善の促進へイニシチアチブを
負う責任を持つ。
技術業の社会的役割
技術業の存在理由を考慮すれば、技術業は単に1)にあるように見なされるべきではなく、手段としてのみ見なされた場合にでさえ、専門職業は公共の福利に視点をおかなければならない。この件を2)に留めるのが適切かあるいは3)にまで広げるべきか重要な問いが存在しうる。
技術業が明らかに公共の善を軽視していると批判される場合、往々にして「技術者は
公共の課題を決定する投票権を持っていないので、技術者が自身の活動に関して狭い
視野を持って実践するのは適切である」といった答えがなされる。
この点において技術者は実は(他の専門職業同様に)自身の課題よりはむしろだれか他人の課題に従って実践すべきだということが正しいことをある程度認めたい。
しかし同様に、このような技術者の主張の妥当性には、技術者はただリスクを最小化するだけではなく積極的に受益を提供するという社会的責任を持つという制限が存在する。
さらに技術業を含め専門職業は活動の実行にあたり高いレベルの自立性を要請する(また自立性が許されるべきである)。技術業という専門職業は、その性質上、自分自身の活動について、警察、裁判、そしてかなりの程度まで監督の役割をはたすようにした方がよい。このことゆえに、技術業が自分自身の課題を持たず狭い視野での実践を許されるべきであるという主張は、ただ部分的な正当性しか持っていない。
技術業はただ他人の盲目的な手段でも、ただ技術的力量に関わるのでもなく、さまざまな可能な活動の評価に関するよく思慮された、よく情報に通じた見解を提供する立場に置かれるのがよい。
技術者が社会的課題を決定するべきでない(フリードマンの議論)とした上での、技術業は提案された技術業の活動の望ましさあるいは望ましくなさを定める重要な役割を担うべきだという(本論文における)主張の重要性は、社会的責任の名において専門職業とその専門職にたずさわる人に、正確に社会的状況全体を意識しそれを考察するという要求が存在するということである。
このことにより、専門職業とそのメンバーには、技術的実現可能性あるいはリスクに気づくこと、リスクを認識・評価することだけでなく、広い視野を持ち提案される技術業の活動において現れる相当の社会的関心事の情報に通じておく責任が課される。
さらにただ社会的展望から情報に通じた見解を持つだけでなく、専門職の能力の中で見解を表明することが専門職業とその専門職にたずさわる人の義務である。
これは技術者が社会的課題を決定すべきであるということではなく、むしろ社会的課題についての熟慮の上の見解を提供しなければならないということである。この要求は専門職業とそのメンバー個々人に課されており、いずれも他方の責任の身代わりとなることはできない。これらのことが社会的責任の要求である。
5 二つの事例
シャロン・べダーは、公共の利害について声をあげその過程で他の技術者を非難したオーストラリア技術者協会の組合員について二つの事例を挙げている。
事例1
コンサルタント技術者のジョン・トザーは、リゾート都市クロスハーバー市の下水のはけ口として有名な美しい「Look-At-Me-Now」岬に代わる代替案はないという勧告を出した市の諮問技術スタッフを非難した。
これに対し諮問技術者は、トザーの非難が諮問技術者の雇用者への信用を不謹慎に損ない協会の倫理規定に違反したとしてオーストラリア技術者協会の倫理規定を採択しているオーストラリアコンサルタント技術者組合に申し立てた。オーストラリアコンサルタント技術者組合は「申し立て人に対し度をこした公の
非難を行った」と裁定した上でトザーを譴責し、組合員の資格の更新を拒んだ。オーストラリア技術者協会は機関紙「オーストラリア技術者」においてトザーの氏名と違反を公表した。
双方の専門技術者団体はトザーの言い分の内容について調査しなかった。
事例2
南オーストラリア州政府の土木技師リチャード・ハーマンは、電線からの山火事防止のため木の枝を払うという電力企業の処理方法に対する非難を「アデレート新聞」に投稿し、電力企業の技術者が電線を地下に埋める費用を水増しすることにより、倫理規定に違反している可能性を指摘した。
これに対し、電力企業の技術者はオーストラリア技術者協会にハーマンが「協会の倫理規定の裁定者として、暗黙に協会のメンバーを誹謗した」として訴えた。
オーストラリア技術者協会は「オーストラリア技術者」においてハーマンの氏名と違反を公表した。
ハーマンの電線の地下への設置は電力企業が指摘するよりも安く提供されうるという主張に対する調査はなかった。
IEEEとの比較による評価
これらの事例を米国電気電子技術者協会の倫理規定と興味深く比較することができる。
第一にオーストラリア技術者協会の倫理規定は、社会への全体に関わる責任を明記するが、技術者に対し公共の利害を声に出すという明示された条項を含んでいない。第二に、オーストラリア技術者協会は事例について、米国電気電子技術者協会が調査するようには調査しておらず、幅広い倫理規定を持つが非倫理的であると指摘できる行いについて制限が存在する。
オーストラリア技術者協会の倫理規定の第一番目にある公共の利害を支持する条項は、倫理的に行動しようとする個人の技術者を非難せずに解釈するのが難しいことから、効力が弱まっている。
オーストラリア技術者協会は、倫理を個人が善をなそうとする積極的な意味ではなく、危害の回避という消極的な意味での責任と同質なものとして捉えている。
倫理規定への違反であるという主張を、公共の善の促進はいうまでもなく擁護するという主張と比較して評価しなければ、協会は社会的責任の豊かな意味を理解したとはいえないだろう。
6 専門職の道義的慣例
専門職業には、個人が論争に意見を述べることを犠牲にして専門職の道義的慣例に固執する一般的傾向があるようである。オーストラリア技術者協会のような専門職の協会は、公共の利害に重要な地位を与える倫理規定を参照する組合員の練成に思慮深くなければならないだけではなく、このような独立性を支援し促進する方法に目をやらなければならない。
専門職社会は専門職業主義(プロフェッショナリズム)を、意見の分かれる問題について公に立場を表明することを意味しようとも、すべての点において奨励すべきである。
オーストラリア技術者協会の倫理規定第一条と第五条は、特に雇用者が環境への影響の検討に十分な配慮を払っていように思われる場合には、技術者にとって相容れないことになる。
オーストラリア技術者協会が環境を守ろうとする者に対する非難に敏感であり、技術者のプロジェクトの環境への影響に関する公共の利害に消極的であると理解されたならば、最近協会が公開した「技術者のための環境行動指針」を妥協してしまうことになるだろう。
7 基本的規則
ウィリアム・フランケナはa)害をなすな、b)可能ならば害を防げ、c)害悪を除去せよ、d) 善をなせ、という非常に基本的な倫理の規則を指摘している。
マーティンとシンジンガーを含め社会的責任の論者は、典型的に第一番目に専念し時によって第二番目、第三番目に専念する。
しかし、ここでの提案は、第二番目と第三番目が技術業に関して主流となるべきで
あり、さらに第四番目にも目をやるべきだというものである。
技術業教育課程における倫理教育
技術業は不可欠な要素として社会的責任を含んでいるという主張からは、技術業の社
会的責任に関する明確に指定された教育を行うのは望ましくないという結論が出るよ
うにみえるかもしれない。というのも、この主張は、社会的責任は結局技術者にとっ
て必須の能力の一つに過ぎないゆえに、技術業にその専門職業の必須の能力と専門職
業に係る法律、政策を学ばせることで十分であるということを意味しているようにみ
えるからである。
このような推論は、専門職の倫理とは通常の授業や実践を改善する必要があるという
考え方だと思ってそうした倫理を拒否する過ちと同根である。
医学では倫理的な医療を教えるが医療倫理もまた教えられる。
技術業の課程(engineering course)の一部分として、たとえば「技術業における倫理(Ethics in Engineering)」という独立の科目が存在することは、専門職の実践についての教育が少しも倫理的でないということを意味しない。
倫理は専門職の能力、優秀性、顧客と投資家の利害への配慮といった固有の要求を、付帯的な社会への倫理的要求と関連づける。
教育の場面では、社会的責任は発見的方法的な装置となり、分離された学科として最適に考察され、その実践を視野に入れた展望はよりよく理解される。こうした考えによれば、社会的責任は技術業の実践への分離した不必要な付加物である必要はなくそうあるべきでもない。
オーストラリア技術者協会倫理規定
- 社会の福利、健康、安全に対する会員の責任は常に、党派的あるいは個人的利害あるいは他の組合員への責任に優先されなければならない。
- 会員は会員の地位と専門職業の信用、誠実、尊厳を支援、高揚するよう行動しなければならない。
- 会員は専門家としての能力を有する分野においてのみ業務を行なわなければならない。
- 会員はその功績に基づいて名声を築かなければならず、不正に競争してはならない。
- 会員はその技術と知識を雇用者あるいは顧客の利益のために利用し、雇用者あるい
は顧客の忠実な代理人、助言者として行動しなければならない。
- 会員は、証拠を提示したり見解・声明を出す場合には、客観的かつ事実に即した仕
方で、十分な知識に基づいて行わなければならない。
- 会員はその経歴を通じて知識、技量、専門的技術を発展させ、同様にそれを目指そうとする者を積極的に助け、奨励しなければならない。
- 会員は他の会員によるこれらの条項の違反を援助、誘導してはならず、関わってはならない。
(杉原 桂太)